東日本大震災被災地の現場から学ぶこと

こんばんは。15年3月10日。明日で東日本大震災から丸4年。
早いものですね。

 

2011年3月11日の地震のときは、僕は富山で合宿中でした。
不謹慎ですが、「お、これで練習休みかも!」なんて思っていました。

 

津波の映像、原発の問題、色々とありましたが、飲み水にすら困っている同じ日本人がいるのに、自分はのうのうと安全な水の中で泳いでいる。
凄く葛藤があったのを覚えています。

そんな葛藤もあって、今までずっと被災地に行けていませんでした。
行きたいと思っていましたが行けていませんでした。
きっかけも無かったし、自分がいってどうにもならないと思っていました。

 

それがある縁がきっかけで、気仙沼に行ける事に。そこで見てきたことや、学んだことを少し書いていきたいと思います。

 

現場の紹介

津波の高さ

気仙沼横丁このポールの高さまで津波が来たそうです。
津波って何となく話を聞くまでちゃんとイメージできていませんでしたが、この高さの波が来るんです。

しかも、瓦礫のかけらなどを巻き込んで時速100kmというスピードで。

身近に行って、凄さをイメージできました。

 

龍の松

写真 2015-03-07 5 55 14奇跡的に残った松。龍のかたちになっています。
大震災が起きた日は、辰年。何の因果か・・・

 

安全のために退去しなければならない土地

写真 2015-03-07 17 20 59津波の対策の為に、ある程度の高さにするため、かさ上げをします。
そのためにその場所から立ち退かなければならない人たちがいる。保障は微々たるもの。

安全のためとはいえ、今想定できる安全は、本当に安全なのだろうか。過去安全の為に設置していた防波堤が津波を防げなかったように・・・・

 

未来像の不在

元に戻そう、人々が生活できるようにしようとしていることは非常に感じられたのですが、将来的に気仙沼がどうなっていくのかは感じられませんでした。あったらいいものなのかは分かりませんが・・・

 

現場から学んだこと

色々なつらい場面を見てきましたが、積極的に復興しようとしている人たちがいました。過去を乗り越えようとしていました。

大震災を経験して、気仙沼から逃げる人もいます。誰も責めれる事ではありません。
ただ、残っている人は、地元が好きだから。子供たちの為に。色々とありますが、皆さんがコミュニティを守っているように感じました。

 

ここで着目したのがコミュニティ。コミュニティがあることで人々は頑張れる・復興が進みやすいのではないかと思いました。

 

コミュニティー、の意味

居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会

 

利害を共にしている、という認識があるからこそ、逃げないし、復興をしようとしているのかなぁと。

 

コミュニティが大切だと思った例がもうひとつ。避難所の例です。

うまくいった避難所 うまくいかなかった避難所
・もともと知り合いがいた
・中学生などがいた
・知り合いがいなかった
・関係性が低かった

 

 

知り合いがいる、同じ利害関係者がいるからこそ、皆でうまく妥協しあい、協力しあう。それがないとうまく機能しない、喧嘩、争いが絶えない。

 

コミュニティが大切なことは何となく分かったが、じゃあ、学びをどう活かすか。

コミュニティ

二つの青の矢印を強くすることが重要だと思っています。

 

・既存コミュニティ内のコミュニティ濃度を濃くすること
・コミュニティの範囲を拡大すること

 

この二つをやっていくことで、助け合いの精神が広まるのではないかなぁと思っています。

 

残念ながらまだコミュニティをどうやって濃くするのか、どうやって拡大するのかはわかっていません。

 

きっと気仙沼は復興すると思います。まず間違いなく。
復興はきっと気仙沼の人たちで出来るとして、次何か起きたときの為や、今回で得た学びを次の人たちに伝えることが重要なんじゃないかなぁと思っています。